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山野そらの歩んできた道(長いです)

  • 執筆者の写真: そら
    そら
  • 5月24日
  • 読了時間: 5分


子どものころから、不思議なことが大好きでした。死後の世界、超能力、UFO。それと同じくらい科学も好きで、宇宙や生命の神秘にとても惹かれていました。「生物学者になりたい」という夢を胸に、中学・高校と勉強を頑張り、国立大学に進みました。

けれど、学者を目指すには厳しい成績。それ以上に「だらだらした人生はおくりたくない」という気持ちが強くて、学者の道はきっぱり断念しました。教員になるつもりは全くなかったけれど、大学で取れる資格が教員免許だったので、とりあえず取っておきました。

香港のおかゆが、すべてのはじまり

「自分でビジネスをしたい」という思いがありました。卒業旅行にインドへ行こうと計画したが、英語力に自信がなかったので、まずは試しにと香港へひとり旅をしました。初めての海外旅行が、ひとり旅でした。

その香港で「中華がゆ」に出会い、「おかゆの店をやろう」と決めました。

インドは想像以上に強烈で、フリーで行く勇気が出ず、隣のネパールへ2週間のひとり旅に変更。4月からは資金を貯めようと会社員になりましたが、配属されたのは一番苦手な経理。半年で退職し、親にお金を借りて、母と一緒に小さな店を始めました。

「おかゆさん」の5年間

「おかゆさん」という名前で、各種おかゆメニューと玄米ご飯の昼定食を出しました。変わった店ということで地元のタウン紙に取り上げてもらったのをきっかけに、その記事が新聞の社会面にも掲載されました。それからテレビ5社、ラジオ、雑誌と次々に取材が来るようになりました。

気がつけば5年が経っていました。忙しかったけれど、楽しかった。

店を始めるとき、自分にこう決めていました。「最低1年は続けたい。できれば3年。でも5年以上は同じ形で続けない」。5年経ってもまだ楽しかったけれど、「だらだらしない」という自分のテーマがある。

ちょうどそのころ、兄が結婚して実家を二世帯住宅に建て替えました。私は実家近くの小さな戸建てにひとりで住んでいました。「この家を改装して、配達中心のお弁当屋にしよう。二店舗経営だ。それなら同じ形を続けることにはならない」と思い、レストランと弁当屋の二本立てをスタートしました。

けれど、やってみて自分の器がわかりました。私には2店舗は無理だった。両方が中途半端になると感じ、レストランを閉めて弁当屋一本に絞りました。

レストランは楽しかったけれど、拘束時間の長さがつらかった。昼には終わる弁当屋はその点では楽でした。将来の経営の勉強としてファミレスでアルバイトをしたり、ネットワークビジネスにもチャレンジしました。

食中毒事件と、転機

5年が経ったころ、堺市でO-157の食中毒事件が起きました。その出来事がきっかけで、お弁当屋を続けることが怖くなり、閉めることにしました。

そのころにはネットワークビジネスがある程度の収入になっていました。ネットワークビジネスをしながら、生命保険の営業、中央卸売市場のアルバイト、公文式教室のアシスタントと、さまざまな仕事を経験しました。

公文式のアシスタントは好きな仕事でしたが、指導者が引退するにあたって「後を継いでほしい」という話が来ました。ネットワークビジネスが中心だったので乗り気ではなかったけれど、条件が良かったこと、そして「ちょっと面白いかも」と感じたことで引き受けました。

ところが、公文の指導者の仕事が、いやでいやで仕方なかった。

コーチングとの出会い、そして教壇へ

そんなとき「コーチング」という手法に出会いました。学んだ瞬間に思いました。「この考えを高校生に伝えたら、彼らの人生は変わるのではないか」

すぐに堺市へ高校の講師登録に行きました。常勤講師として採用されました。公文教室をやめる口実ができたと、内心ほっとしながら、喜んで教壇に立ちました。担当は生物。放課後には生徒を集めてコーチングのワークショップをするなど、充実した日々を送りました。

3年後、学校を離れることになり、次は地元の中学校で理科を担当しました。とても荒れた学校で大変でしたが、その経験が次への扉を開きました。支援教育に関心を持ち、採用試験に合格。翌年は超エリート中学校に赴任し、2年後に支援学級の担任となり、その後は支援学校へ赴任しました。

57歳の決断

支援学校3年目、57歳のとき、ふと思いました。

「健康なうちにやりたいことがあれば、今しかない。人手不足だから、一度退職しても講師の口はあるだろう。一年後にまた考えよう」

そうして早期退職を選びました。

最初の1年はゆっくり過ごし、友人と旅行に行ったりしました。でも、だんだん飽きてきました。還暦を前に「何かしたい」という気持ちがむくむくと湧いてきました。

サロン、そして「原点」へ

実家の両親が住んでいた部屋が空いていることを思い出しました。義姉に相談すると、使っていいと言ってくれました。エアコン、冷蔵庫、机、椅子を揃え、マッサージベッドも用意して、ヒーリングサロンとしてスタートしました。

でも、来てくれるのは友達だけ。お茶会を開いても集まらない。糸掛けまんだら、点描画、龍体文字とメニューを増やしても、人は来なかった。

もう一度、原点に戻って問いかけました。「私は、何をしたいのか」。

出てきた答えは——「気づきを与える場所にしたい」

人は自分に気づいたとき、もっと生きやすくなる。でも、自分に気づく瞬間は、少し痛いこともある。そんな思いをしにわざわざ来てくれる人がいるだろうか。そもそも、私は人のしんどそうな様子を見ていられるだろうか。

そう迷っていたとき、気づきました。「他人の目線で考えていた」。

自分のサロンなのだから、自分がしたいようにすればいい。

やっと、ここまで来た。

この物語は、まだ続いています。

 
 
 

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